永遠と一日 |
ファーストチルドレンのビデオを見て、大和を知り興味を持って、購入しました。期待に答える作品でした!!今、どっぷりはまってます。。 |
永遠と一日 |
あなたは、時間とよばれるものについて考えた事がありますか?それは進むものでなくましてや戻るものではない。私の耳をとおして感じるこの映画のサウンドトラックは、どの空間から流れてきたものなのだろう? 永遠という言葉の意味するものはまた、そこにあるものなのかないものなのか。長く『続く』ものを永遠とするのも、また終わりのないものをそうとするのもいいでしょう。 私たち言葉をもつものが与えたこれらの概念の浮雲的な、超空間的なあやふやさを映画の場面とともに響かせてくれるCDです。 |
テオ・アンゲロプロス全集 I~IV DVD-BOX IV |
フェリーニ=ニーノ・ロータとはずいぶん趣が異なるが、テオ・アンゲロプロスの映画にはエレニ・カラインドルーの音楽が不可欠である。いまやそれは映画の重要な一部になっているといっても過言ではない。 アンゲロプロス映画の音楽をカラインドルーが担当したのは「蜂の旅人」からだと思う。1982年にある映画祭でカラインドルーの音楽に接した監督は、その場に出席していた作曲家に即座に仕事を依頼したという。その後「シテール島の船出」「霧の中の風景」を経て、「こうのとりたちずさんで」「ユリシーズの瞳」と次第に両者のコラボレーションの密度は深まり、「映像と音楽の稀有の一体化」を実現してきた。 そして、その頂点をなすのが、この「永遠と一日」である。映画を見た人なら、音楽がいかに主人公(ブルーノ・ガンツ)の心の微妙な襞々に寄り添っていたかが理解できるだろう。このCDを聴くたびに、私はアルマーニのコートに身をやつした、人生最後の一日を過ごす男の姿がまざまざと浮かんでくる。 その一方で、この音楽の完成度はどうだ。ギリシャの民族音楽の研究家でもあるカラインドルーは、郷愁あふれるローカリティのなかに地域や時代を超えた普遍性を獲得している。現代ギリシャの生んだ優れた現代音楽としても高い評価が可能であろう。実際、これは単なるサントラ盤ではなく(そしてカラインドルーの全作品が)、アルヴォ・ペルトやクルタグなどの作品で知られるECM New Seriesからリリースされている。 アンゲロプロスの最新作「エレニの旅(Weeping Meadow Trilogy Ⅰ)」の音楽も、もちろんカラインドルー。本作以上に、映画における音楽の役割が増大していたのが、とりわけ印象的であった。 |
永遠と一日 [DVD] |
映画館で見ると必ず一度は眠りに陥るのが、アンゲロプロス作品。そんなことは自分だけなのかもしれないが、それでも最高の映画監督だという思いは強い。 04年アテネ五輪を記念して、かどうかはしらないが、テオの主要作品をほぼ全て鑑賞できるボックスが登場したことは、近年記憶にない快哉事であった。『永遠と一日』。人間が記憶を持ち、言語を持つという根源的な意味合いと、人生は動物としての有限性を生物学的に担わされているということの狭間。ブルーノ・ガンツ演ずる主人公とクルド人難民の少年が、バスに乗り込んだときに展開してゆく映像こそ、その狭間の 全き表現でなくて何であろう。画面を何度か横切り、ラストシーンでも強烈な印象を残してやまない黄色のレインコートを着た男たち。あの黄色は何を意味するのか? |
永遠の一日 (海外文学セレクション) |
〜ふわふわした雰囲気の、なんだか懐かしいような不思議な作品。
その世界にいったん入ってしまえば、独特の感覚をすんなり楽しめる。 著者お得意の、絞り込んだ登場人物に焦点をあてた小説で、丁寧に書き込まれている。 原題がDamascusなのになぜ邦題が永遠の一日になったのか彼に聞いてみたところ、 「翻訳にはよくあることだし、実際内容はその通りだからね〜〜」と笑っていた。 青と金魚の装丁もお気に入りとのこと。〜 |
永遠と一日 |
瀬川幸子は50歳、ウィーン在住の貿易会社支社長夫人だ。
ウィーンの日本人社会の中でも一目置かれる地位にある。 義理の仲の息子たちにも細心の注意をはらって育てている。 皮肉な笑みがよく似合う極めて現実的な人間だ。 そんな彼女がウィーンの市場でジプシーの老婆から不思議な眼鏡を買う。 その眼鏡をかけると、眺めていた物語や写真の仲の世界へ入ってしまうのだ。 前半はお馴染みの物語の仲で小さな冒険を重ね、眼鏡の力を試し、確信していく。ありがちなファンタジーのようだが50年配の夫人がアン・シャーリーやロビンソン・クルーソーに出会うのだ。 しかし、この物語の醍醐味は後半の幸子の過去への回忌の部分だ。 自分の不誠実から死なせてしまった弟に幸子は会いに行く。幸子の願いが叶って、昭和30年代のある日に彼女は帰っていく。誰もがちょっと不幸で寂しかった昭和の子供、それでも精一杯受け止めて子供時代を謳歌していたあの頃。 幼くして逝った弟、不遜な親戚に殴り殺される愛犬、借金のかたに働かされるために北海道に連れて行かれる姉 背中の重荷は大人になるほどに耐えられなくて、少しずつ冷淡になっていく幸子。 「私の人生は間違っていた」 皮肉な気分のうちに半生を送ってしまった主人公が見えない大きな存在に気づき、人生の光を今一度取り戻そうとする。 現実離れした題材だが、幸子の女としての苦悩、業、恵まれなかった幼い頃の思い出がよどみない筆致で綴られていく。後半の子供時代の話の部分では何度も号泣し、呼吸困難になって困った。 期待せずに読み始めた本だったが忘れられない作品となった。 |